

マリカのマイライフ
学生編 玉川学園
(写真:ペンクラブの月例会で。中央が高橋健二先生)

「高橋健二先生の思い出」
私は27歳までのんびり学生生活を謳歌していました。玉川大学時代の友人が社会人になっていたのに、私はまだ、青春をしていました。
とても素敵な思い出は、素晴らしい方と出会うことで生まれます。
博士前期課程の2年目に、高橋健二先生(当時の日本ペンクラブ会長)の講義がありました。
小学校の頃からケストナーのファンでしたから、とても嬉しかったです。
当時の前期課程では、日大の学部から一人、外部から一人(私)、合計2名の学生しか受け入れていませんでしたので、偉い先生方に、本当にもうしわけないようなシステムでした。
1回目の講義が終わるなり、「私の鞄を持ちなさい」と言われ、文字通り、高橋先生の鞄を持って校門を出ました。
学校から下高井戸駅までの間にはたくさんのお店があります。左手の甘味喫茶の前まで来たとき、高橋先生は、「丸子さん、あんみつを食べましょう」とおっしゃいました。
高橋先生はあんみつが大好きだったのです。その時から、私は、毎週講義にあとに、先生に連れられてそこのあんみつ屋さんへ行くことになりました。
そのうち、高橋先生は、私を日本ペンクラブの月例会や中央線沿線の文化人が集うカルバドスの会(当時の紀伊国屋社長田辺茂一氏主催で杉並のこけし屋で開催されていた)に「鞄持ち」として連れていって下さいました。私はまだ学生の身分でしたので、そのような所へ出入りさせていただいて、日本の頭脳と言われる素晴らしい方がたの姿をあこがれの気持ちで見ていました。
高橋健二先生は黒柳徹子さんの「窓際のとっとちゃん」の出版記念パーティーに私を連れて行き、私を「点子ちゃんとアントン」に出てくる点子ちゃんですとご紹介下さいました。ですから、世界中で私のことを点子ちゃんと呼ぶのは、高橋健二先生と黒柳さんだけでした。
黒柳さんは、以前私に下さいましたお手紙に、「高橋健二先生がいらっしゃらなかったら、私たちはみな、先生から素晴らしい読書教育を受けられませんでしたから、何を読んだらいいかもわかりませんでしたよね」と書いていらっしゃいました。
高橋健二先生は黒柳さんのファンで、黒柳さんが舞台のご招待券をお送り下さると、私を連れて、お花を持って見に行きました。
先生は黒柳さんの前で照れくさいものですから、楽屋でお花を渡す役目を、私にさせるのです。でもそのお花は高橋健二先生から黒柳さんへのお花でした。
ところで、朝日新聞社が毎月1回千駄ヶ谷のプールを貸し切りにして、社員と執筆者だけの日がありました。
高橋先生は健康のために、毎回おいでになるのですが、その時に、「丸子さん、千駄ヶ谷で打ち合わせをしましょう」とプールへお誘いになりました。千駄ヶ谷で打ち合わせといいう意味が、一緒にプールで泳ぎましょうということなのです。
高橋先生は、東大の水泳部かボート部(それは奥津彦重先生だったかもしれません、岩波の独和辞典をつくられたシーラカンスのような偉い先生です)で、とてもお元気でプールを往復して泳いでいました。
私より泳ぎが早かったのです。
私は、顔を水につけるのが嫌なので、平泳ぎをしても遅くなってしまうのです。
水泳が終わると、タクシーでうちへ(当時私は代々木公園に住んでいました)いらして、一緒に将棋をしました。
私のプラスチックの将棋をご覧になって、「こんなものでやっていても、上手になりません」と、次回おいでになられた時は、風呂敷に、無垢の檜の一枚板と、本物の檜の将棋の駒をお持ちになりました。
重かったでしょうに、「なんでもない」とおっしゃっていました。
「私の師、川端康成は山本有三から将棋を学びました。私はいつも川端康成の将棋の相手をしていました。今度は私があなたに将棋を教える番です」
そういう有名な方のお名前聞くと頭がくらくらしそうでしたが、高橋健二先生は、実務にうとかった川端康成先生をお助けしながら、現在の日本ペンクラブを不動のものになさったのは事実です。
高橋健二先生は、読む人を感動させる素晴らしい文章をお書きになる一方、事務局能力にも長けておいででした。
私は本当に将棋が下手で、高橋健二先生は、「そんなとこに置くと、飛車取られますよ」とか「王様そこでいいんですか」とか、まるで小さい子供に教えるように私のお相手をして下さいました。
しかし、家にコピー機を置かず、コピーする原稿がある時は、吉祥寺のご自宅から、わざわざ私のところへおいでになって、私にコピーをさせていました。
高橋健二先生は、私でもできる簡単なことを私にさせることで、私に学ぶきっかけを作って下さいました。
「ドクトル・ケストナーの家庭薬局」の言語の詩のをアルファベット順に揃えなさいとか、どこどこのイベントでケストナーの講義をするから、日本語版の朗読をしなさいとか言われました。
私は言いつけられたことは、なんでも嬉しくて、喜びいさんでやらせていただいていました。
ある日、世界ペンクラブの大会が日本で開催され、博報堂がとりしきって、盛大に行われました。
「あなたはドイツ語の通訳のアルバイトでいらっしゃい。会場で待っていますよ」と高橋健二先生がおっしゃいました。
私が新宿西口のホテルの会場へ行くと、世界中から文豪と呼ばれる人々が集まっていました。ノーベル文学賞の方もおいでになり、私は感動しました。
「詩人」、「小説家」、「編集者」の別を表すネームプレートをつけた人々の間で、私は、他のスタッフと同じようにスタッフのネームプレートをつけていました。
ドイツからおいでの文豪は皆、英語が達者なのですから、私ごとき若輩者が出る幕はあるはずがありません。
私はトイレの中で泣きました。大きな声で泣きました。
世界の頭脳が最高の場所に集合している。そのトップにわが師、高橋健二先生が日本ペンクラブの会長としていらっしゃるというのに、私はなんなのだろう。会員が会費を払って参加している名誉ある場で、アルバイト料をもらうなんて、本当になんとなさけないことなのだろう。先生は親心で私に素晴らしいものをご覧に入れて下さろうと、事務局に頼んで私をここへ来させて下さったけれど、私は本当に悲しい。ここでお金を受け取っている人は、通訳アルバイト、銀座のクラブや派遣会社から来たコンパニオンや着物姿のママさんたちと、ホテルの配膳要員だ。偉大な人は、お金を支払ってこの場にいる。いつの日か私もきっと会員になって会費を払いたいと決心しました。
高橋健二先生は、ペンクラブの会員になりたければ、いつでも推薦しますよとおっしゃって下さっていましたが、著作もなにもない若い鞄持ちが会員になったりしたら、それこそかっこうのスキャンダルで、自分自身でも恥ずかしいことです。
それで私は、高橋健二先生に、自分の実力で本を出したら、その時はじめて先生にお願いにあがりますと言っていました。
その日が来たのは、それから何年も後でした。踊りの本を2冊出した時、はじめて先生にペンクラブの会員になることを打診しました。
先生はこの時を待っていたとばかり、快諾してご推薦下さいました。
私は、あいつは会長にひいきされているからここまできたと思われるのが嫌でしたから、つとめて自主独立するようにしていましたが、高橋健二先生の存在は当時の私にとっては、とても大きいものでした。
人によっては、ゲーテと50歳下の恋人ベッティーナに例える人もいました。高橋健二先生は、ファウストみたいな書斎でご自分がファウストになりきっておいででしたので、私をベッティーナに見立てておいでだったかもしれません。
私はあなたがうらやましいわ、とはっきり私におっしゃる女流作家の方もいらっしゃいましたが、私はうらやましがられる自分は、人をうらやましいと思う人の何倍も幸せなのだから、多少の非難や陰口は聞こえないふりをしようと思いました。
先生は私をとてもかわいがって下さいましたので、ちょっとしたことでも、私にすぐにお電話をかけていらっしゃいました。
特に、かわいがっていた猫ちゃんが亡くなった時などは、先生は受話器の向こうで泣いていらっしゃいました。
そうしたお話をして下さる先生の信頼がとても嬉しかったです。
先生は世界的に偉大な方なのに、私の前では大きな子供のような時もありました。
私は19歳の時から13年間ユダヤ系カナダ人のボーイフレンドがいましたが、高橋先生は、恋愛以上の特別な存在でした。
同い年の彼氏が70代の高橋健二先生に嫉妬するくらい、私は気持ちがゲーテに対するベッティーナでした。
それって、なんだかとても素敵なことだと思うのです。
男の人は、年齢を重ねるともっと精神的に磨きがかかってきますから、包容力のある年配の男の人は、本当に魅力的です。
最初に高橋健二先生のお宅へお伺いした時は笑えます。
高橋健二先生からお電話をいただいて、「貸した本を返しにおいでのさいに、お見合い写真を持っていらっしゃい」と言われたのですから、笑ってしまいます。
私が高橋先生に、「男と一緒に写っている写真しか手許にないのですが」と言うと、それでは、男を切り取ってあなた一人の写真にして持っていらっしゃいとおっしゃったので、切ってもいい男の写真をいろいろ見つくろって持って行ったのを覚えています。
素敵だったのは、高橋健二先生がイタリア旅行をなさった時に、イタリアから下さった絵はがきです。
ゲーテがイタリア旅行をした時のベネチア章の文章とほとんど同じだったのです。ゲーテのイタリア紀行はラブレターで綴られた旅行記ですが、高橋健二先生が、イタリアでゲーテになりきりで、私にお書きになられた絵はがきは私の宝物です。
先生の伊豆山の別荘へ連れて行っていただいた時、先生は、鍵を別荘のなかに入れたままドアを閉めてしまいましたから、お庭の側から、よじ登って窓から中に入ったのです。
高橋健二先生は、まるでバルコニーによじ登るロミオでした。
こういう個人的な思い出は本当にたくさんあります。
ミケランジェロ展へ行ったあと、先生は私をイタリア料理にお連れになりました。それって、素敵なデートです。会話はもちろんゲーテのイタリア紀行や古代ローマです。とても、ロマンティックな方だったと思います。
私はあえてベッティーナの役をしていたのかもしれません。
高橋健二先生の思い出を綴ったら、本が一冊書けそうなくらいたくさんの素晴らしい時間をプレゼントしていただきました。 5/9
