上演記録 「フランシス・ダンス・コンサート」1983年  東京ヤクルトホール、土浦、横浜 2 3 ルイジ・オン・ステージ
「62丁目のあなたへ」
ブロードウェイ62丁目というのは、
言わずと知れたあの、
酢漬けキュウリの臭いのする
階段を上がったところにあった
あの、ルイジ・ジャズ・ダンス・
センター。
これは1983年の再演。
1982年の12チャンネル
「ジャパン・ジャズダンス・
フェスティバル」の時は、
渋谷公会堂だった。
「42年の夏」
ルイジの名作をフランシスに踊ってもらうことにした。
ルイジのファンにとって一番難しいのがこの踊り。
内容はというと、なんのことはない、セカンド・ポルド・ブラから始まって、
体重をシフトしてアラベスクからクロス・ロックド・ポジション、そして、
ジャズ・ラインの足でダウンというプリ・ウィーム・アップのパターン。
ところが、これは誰も踊れない。
こんなに明快な動きの順番がどうして踊れないのだろう、その時はわからなかった。
私たちは、「シング・シング・シング」や、「ミッション・インパッシブル」などの早い踊りを
習い、それなりに踊れたのに、「42年の夏」だけは、誰も踊れず、ルイジしかできなかった。
1983年にフランシスは実によくやったと思う。
ルイジみたいだった。
その後、色々な人がこの踊りに挑戦したけれど、なぜか、さまにならなかった。
どうして踊れないのかというと、振付がわからないからではない。
ルイジがそれを踊るに至った苦しみを経験していないからだ。
踊りは何を踊るのかではなく、誰が踊るのかなのだと、つくづく思った。
モーリス・ベジャールのところへ行っていた、小池啓司さんが
帰国していた。
まだ小学校低学年だった私は、平多正於先生のお稽古場の片隅で、
大人の人たちの群舞の練習を見ていた。
大勢いたけれど、若い小池啓司さんがダントツに上手だったのを
今でもはっきり覚えている。
だから後に選ばれてモーリス・ベジャールのところへ行ったと聞いても
驚かなかった。
正於先生のお稽古場で、小さいむっちゃんでしかなかった私にとって、
啓司さんは雲の上の人だった。

小さい頃から憧れていた啓司さんがこの公演への出演を承諾して下さったのは
ひとえに山口恵子先生のご尽力による。
恵子先生との出会いがなければ、土浦公演はありえなかった。
同じ理由で、池谷先生との出会いがなければ、横浜公演はなかった。
それらの先生方のご努力に感謝する。
私の力では、東京公演しかできなかった。
ルイジの本
webmasterより:当時の出演者より、あの公演の時の写真が見たいというリクエストをいただいた。
本来なら、もっと昔にこのような頁をつくるべきだったのに、なぜか、今になってしまった。
写真はたくさんある。編集してアップする時間が足りない。だんだんに増やしていきたい。
それにしても、この公演はすごい顔ぶれだった。その前の年の「ルイジ・オン・ステージ」が
あったからできた。多くの出会いがあった。才能と実力に溢れた人々だった。
私たちは皆、ルイジの門下生であることを誇りに思う。
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